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【コラム】浅間山の草原の風、軽井沢

グリーンのプリザーブドフラワー

《 Belles Fleurs Tokyo フラワーデザインコラム vol.5 》

長雨の梅雨が明けると、コンクリートとガラスに囲まれた都会では、夏の日差しの暑さに逃げ出したいほどです。そんな時に高層ビルの間からのぞいた入道雲を見て、避暑地の軽井沢を思い浮かべます。浅間山の山麓、草原とカラマツ林を抜けてくる風を心に感じてしまいます。

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軽井沢は、日本全国に幾つもある避暑地と多少イメージが違う気がしませんか?それは軽井沢の避暑地としての成り立ちにあるようです。

万平ホテル軽井沢の避暑地としてのスタートは1886年(明治19年)、カナダ生まれの宣教師A・C・ショー氏が訪れ、その清澄な自然と気候に感嘆し、明治21年には旧軽井沢の大塚山に簡素な別荘を建て、ショー氏の友人の宣教師たちの別荘が年を追って建ち始めました。

避暑地軽井沢の初期は外国人宣教師やその家族が大半であり、必然的にキリスト教的風潮の強い町となり、西欧の風も吹き抜けるような軽井沢独特のイメージを育んできたのでしょう。

現在では、観光地やショッピングの町として有名になっていますが、人波からふっと横道に入ると昔の静寂な軽井沢に出会える場所もあります。

まずは、万平ホテル。江戸時代から外国人ゲストをもてなしてきた旅籠「亀屋」を、欧米風のホテルに改装オープンしたのが明治27年(1894年)。日本における西洋式ホテルの草分けのひとつで、ここを舞台にさまざまな歴史の1ページが刻まれてきました。ジョン・レノン直伝のロイヤルミルクティーは、あまりにも有名な話のメニューです。

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幸福の谷軽井沢には、芥川龍之介、室生犀星、川端康成などの多くの作家が避暑や文筆のために訪れていますが、特に堀辰雄は自筆の小説の中で軽井沢の情景を描いています。

「私の借りた小屋は 、その村からすこし北へはひつた、或る小さな谷にあつて、そこいらには古くから外人たちの別荘があちこちに立つてゐる。(中略)外人たちがこの谷を称して幸福の谷と云つてゐるとか。」(『風立ちぬ』より)。

軽井沢万平ホテル裏手の別荘地帯にある、小さな谷が幸福の谷。幸福の谷(ハッピーバレイ)の命名者は、この谷に初めに別荘を構えた宣教師たちで、現在も閑静な別荘地帯なため、案内板もありません。
カラマツ林のなか、苔むした石垣と石畳が続き、夏でもひんやりとして、凛とした空気が漂っています。

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アサマキスゲ軽井沢の特別な話。
小学校5年生の時に、軽井沢で疎開生活を送られた正田美智子さん、つまり現在の上皇后陛下も、かつての「軽井沢風景」に心を寄せられています。

平成14年に発表された御歌『かの町の野に もとめ見し 夕すげの 月の色して 咲きゐたりしが』は、レモンイエローの美しい花「アサマキスゲ」の、その後の様子に想いをはせて詠まれたものです。

その翌年、13年ぶりに訪れた軽井沢町植物園で、自然のままに咲く姿に安堵され、「末永く残されるように…」と、30年間皇居で大切に育てられてきた種子12,000粒を、名誉園長・佐藤邦雄氏に託されたそうです。
このアサマキスゲが、立原道造の第一詩集『萱草に寄す』の「萱草(わすれぐさ)」のことです。

軽井沢をめぐると、あまりに多くの堀辰雄を中心とした文筆家の人生の足跡が見えてきます。

小説『風立ちぬ』の作中にある詩句、「風立ちぬ、いざ生きめやも」が、今でも軽井沢と信濃追分に若い人たちの足を向かわせるのでしょうか。

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